なぜブログを始めようと思ったのか。
一番の理由は文章の練習である。
日本語に触れる機会はたくさんあるけれどそれらはほとんど全てがインプットであってアウトプットではない。 日常生活もほとんどが英語で進められる。 そうなってくると当然日本語の微妙な使い回しやニュアンスに疎くなってくる。特に敬語は最たる例で、ガチガチにかしこまってしまうか普段の言葉遣いが多少丁寧になる程度のものに終始してしまったりする。「この相手だったらこの程度崩して平気かな」などといった微妙な調整ができなくなってきている自分に気づく。
話し言葉だけでなく書き言葉も然り。学生という身分上英語で論文を書くことが日常となっていて、もちろん文献は英語の学術的なものがほとんどを占める。 例え新聞や雑誌を読んだりしても、文体的にはかなり偏った世界に身を置いていることになる。 英語の論文の書き方もおぼつかないが、日本語の書き方も英語の論文スタイルにかなり影響を受けてきているように思う。
こうした現状を振り返ってみてブログはいいトレーニングになるかもしれないと思った。要するにもっと感覚的に文章を書いてみたいと思ったのだ。文章を書くことの難しさに振り回される日常では楽しく書く、好きなように書くという行為とはほぼ無縁である。どこに句読点を打つのが「正しい」書き方なのか、という括りではなく、どこに句読点を打つことで一番自分の気持ちを的確に表現できるのか、といったことに注意をはらってみようと思った。 (もちろん感覚的に書くことで受け取り手側の解釈との間にギャップができてしまうことは承知だが。。。)
もうひとつはカメラを持って街を歩くことで、写真家の視点に少しでも近づけたら、という願いである。私が興味のある写真家達は大抵皆自分の住み慣れた街を撮る。ふらりと出かけ、常にカメラの中に納まる被写体を探している。私も旅行先ではそうするが、住んでいる街を意識的に被写体として考えたことはほとんどない。彼らの行動を上澄みだけでも真似することで彼らの街に対する意識を汲み取ることはできないだろうか、そう思ったことがきっかけである。(そう思いつつも今日もカメラを持っていくのを忘れてしまった。道のりはかなり遠い。)
要するに全ては自分の為。かなりエゴイスティックなブログゆえに読んでくださる方が楽しめるような内容にはならないかもしれない。上のテーマはあくまでもきっかけにすぎないので、自分が思ったこと、したこと、感じたことをそのときの気分に沿った文体で書くであろう内容はかなり煩雑なものになると思う。
そんなブログだけど、振り返ってみて自分の思考、行動の道筋のようなものが見えたらいいな、と思う。
早速書いたものを読み直して。。。
やっぱり固いですね。でもこんなのもアリってことで。